おはようございます。
む〜です。
先日、このブログをみているヅカ友と久しぶりに食事しました。
1年ぶりにあったのでお互いに話したいことは山積みだったはずなのに、その友人に最初に言われたのが、
「最近のブログどうしちゃった!?毒(吐いて)ないじゃん!」
ってことで笑
開口一番にそれかよ!とつっこみながらも「確かに毒(?)吐かなくなったな」と思いました。
今日は私が9年宝塚を観劇し人事に振り回された果てに行き着いた宝塚歌劇の楽しみ方についてお話ししたいと思います。
ズバリ、
宝塚歌劇は”宝塚歌劇団の世界観”を楽しんだもの勝ち なんじゃないかなって最近思った次第です。
勝手に当事者ぶって文句言ってた
今まではこう考えるのが難しかったけど、一度宝塚の人事を「これも宝塚というエンターテイメントの一つなんだ」と考えてみたらすごく楽になりました。
今までの私って宝塚歌劇団の不可解な人事に意味もわからずに勝手に突っ込んでいって勝手に文句言っている感じでした。
例えるなら渦潮。
宝塚歌劇団で突如起きた渦潮(不可解な人事)に自ら飛び込んでいって苦しむの笑
自ら渦潮に飛び込まずにちょっと離れた場所からその現象を観察したり楽しめばいいものの、わざわざ自分から苦しみに行って溺れかけて文句をいっていたのが今までの私だなって最近思いました。
宝塚歌劇団という世界で起こる悲劇をあたかも当事者が私であるかのように苦しみすぎていたんですよね。
誰にも頼まれていないのに笑
ご贔屓様に「一緒にこの人事で苦しもう」と言われたわけでもないのに自分のことのように悲しんだり喜んだりしていました。
まぁそれはそれで楽しいのかもしれないけど、私はそれで負の感情を抱く時間ももったいないし、そんな自分が嫌だ(人事で誰かを責める)なと感じはじめて最近は自爆しにいくことをやめました。
そんな私が最近考えて実行しているのが「宝塚歌劇の世界観を楽しむ」という行為です。
宝塚歌劇の世界観を楽しむ
私はここ数年、宝塚歌劇の人事に結構振り回されてきました。
正直今も不可解な人事があると「え?」って思うことあるし、色々考えちゃうこともあります。
でも最近の私が以前と確実に異なるのは、私がその不可解な人事さえも宝塚のエンターテイメントの一種として、そして宝塚歌劇の世界観の一つとして楽しむようになったということなんです。
長年宝塚歌劇をみてきて、宝塚の人事が自分の思い通りになることなんて99%ないということを知りました。
言い方は悪いけどファンの想いに寄り添ったような人事なんてまずないわけです。
だったら
宝塚歌劇団に余計な期待することなんてやめちゃおう。
寧ろ不可解な人事異動も宝塚の世界観として受け入れて、エンターテイメントだと思って楽しんじゃおう。
そう思うようになったんですよね。
タカラジェンヌの多様性も宝塚歌劇の世界観だと受け入れる
みたい舞台だけみて、応援したい人だけ応援していると自然とタカラジェンヌの多様性を受け入れられるようになってきました。
この話を友人にしたら
「みたい舞台だけ見て、応援したい人だけ応援するなんて全然多様性じゃないじゃん」
って怒られちゃったけど笑
なんだろうなぁ・・・。
見たくない舞台、応援できない人に対して毒を吐いていると、どんどんその舞台やジェンヌさんが苦手になっていて自分の中で「無理!」って感情が広がっていっちゃうんですよ。自分の好みと合わないから無理(多様性の拒否)だという気持ちに歯止めが効かなくなるのです。
でも、自分の苦手なものは見ない・聞かないというのをしていると、その「苦手」という感情が次第に薄れていって、良くも悪くも自分にとっては何も感情を持たないし期待もしない「無」の存在になれるので拒否する気持ちは一切なくなって、最終的に「そういう舞台・人もいる(多様性の承認)」と思えるようになっていきました。
だから今の私は昔のように「この人苦手!」ってジェンヌさんはいないです。
宝塚歌劇団はみんな違ってみんないい。
舞台人として歌が下手でも芝居が下手でもダンスが下手でも、それも宝塚歌劇という世界観の一つ。
そう考えるようになってから私は宝塚歌劇を心から楽しめるようになった気がします。
こんな私は宝塚ファンなんでしょうか?
という話を友人にボソボソと話したわけですが、ふと「こんな私って宝塚ファンなのかな?」と疑問に思いました。
友人は「ディープファンの極限まで行ってライトファンに戻ったってことじゃん?」って言ってたけど、そうなんだろうか?
こんな考えの私でもまだ宝塚ファンと言えるのかな??
という私の疑問をこのブログにぶつけてみちゃったよ〜。
今日も取り留めのないブログで申し訳なかった・・・。
すんません!
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