おはようございます。
む〜です。
遂に11月ですね_:(´ཀ`」 ∠):
10月は体感一週間でした笑
皆さんはどうでしたか??
さて、今日は月組エリザベートシリーズ第三弾です。
珠城りょう様が演じたトート閣下について率直な感想を書いていきます。
本日もどうぞごゆっくりご覧ください^^
月組エリザ関連記事
まず最初に、月組エリザについて今まで書いた記事をここに貼り付けておきます。
興味のある方は是非併せてご覧ください。
「死」として存在する
皆さんにとって、「死」ってどんな存在でしょうか?
怖い存在?
怪しい存在?
身近な存在?
それとも遠い存在?
宝塚で上演されてきた「エリザベート」という作品の中では「死」はトートという人格を持った存在として扱われています。
トート(死)は私たちが普段考えている「死」を擬人化し、非日常的というかファンタージー要素が強い特異的な存在として描かれているのです。
それが宝塚のトート(死)であり、そういうものだと思っていました。
というか今まではそうでした。
ここで「今まではそうでした」とあえて書いたのには理由があります。
今回のたまきちトートは、今までのトートとは違い、「普通」でした。
私たち(少なくとも私)が人生を歩む上で、考えている「死」の概念にかなり近い。
宝塚バージョンのような特異的な存在として描かれつつも、個性のないトートでした。
私たちが時と場合によって「死への見方」が変わるように、たまきちトートも見る者(シシィやルドルフ)によって見え方が変わっているんだと初めて気づきました。
「個性がない」というと怒る方もいるかもしれませんが、私はこれを原点回帰だと思っています。
本来、「死」に個性なんてありません。「死」は私達の人生のなかで漫然と漂い、会うべき時に巡り会うものです。
「死」という存在に特異性・個性を持たせようとするのは宝塚の中だけの話です。
たまきちトートは物足りないという意見もちらほら聞きましたが、もしかしたらそれは「宝塚のトートとして」物足りないということではないでしょうか?
個人的に、たまきちのトートは「死」としてあるべき姿に原点回帰した。と捉えられるかと思いました。
「宝塚のトート像」という枠に縛られず、「死」の原点を目指した。
そんな気がします。
宝塚的なトートを見たかった方にとっては、物足りないかもしれませんね。
でも、物語としては納得のいくトートだったと思います。
干渉しないトート
たまきちトートは干渉しているようでしていない。そんな風に見えました。
それは前の章で前述したように、漠然と存在する「死」として立ち振る舞っているからなのかもしれません。
シシィへの干渉もしているけれど、強烈な個性がないためか「死が人を愛した」とはあまり見えず、寧ろ「冷たい」印象を受けた。
たまきちトートは動いているけれど基本「座してシシィの死を待つ」という姿勢だったと思う。
焦らず、恋いこがれることもなく、、ゆうるりと時が流れシシィが自分の元にやってくるのを待っている。そんな余裕さえ感じた。
他にも、ミルクなどで民衆を先導するシーン、革命家トリオを立ち上がらせるシーン、ルドルフに干渉していくシーンなど様々な場面でトートが操っているかのような場面があるけれど、どれも「必然」だとちゃんと感じられる。
トートが先導したからではなく、登場人物それぞれが考え・悩み決断した未来を選び取っていくことを強く感じた。
今までのエリザベートは黄泉の帝王トートが操っているように見えていただけに、これはこれで面白い。人の力を感じる物語に仕上がっていると思う。
伸び切らない歌声と役作りがアンマッチ
私はたまきちトートの役作りは正解だったと思う。
原点に立ち返るという意味でも、今回の選択は間違えではなかったと感じた。
ただし、おおらかな「死」という彼女のトート像と上がり切らない歌声がミスマッチだったのがとっても残念だった。
たまきちは歌の人ではないとわかっていながらあえて苦言を呈すけど、あの役作りであの歌い方はない。
どこまでも優しく広がる死を連想させておきながら、声が伸びずに苦しく切れるのを見ると折角素晴らしい演技を積み重ねて「死」のイメージを作ったのにそれが壊れてしまう。
観客は現実世界に引き戻されてしまうのではないだろうか?
トートはパワーを必要とされる楽曲が多いし、ここまで求めてはいけないかもしれない。
でも私が見た日はかなり、、音もブレていたし時々ずれることもあった。
たまさくコンビお披露目として海外ミュージカルを控えているからには、歌唱力のさらなるブラッシュアップも必要なのではなかろうか。
次は美弥ちゃん。
次は美弥ちゃんについて書きます。
ぜひご覧ください。
でわ〜
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