おはようございます!
むーです。
昨日はアンナ・カレーニナを見てきました。
チケットは取れなかったのでライブビューイングでの観劇でした。
今回撮影者?さんのカメラワークが神がかってたのでとっても見やすかったです!
ありがとうカメラさん!!特にアンナが飛び込み自殺した後のシューズの映し方にはセンスを感じました。。
今日は昨日のアンナ・カレーニナの感想を書きたいと思います。
Twitterでは書ききれない想いをここで吐き切ります。
”人の人生”は”食事”に過ぎない
この物語はメイドがナフキンを椅子に置く場面から始まる。
ナフキンを置き終わると社交界の華やかな貴族たちがゾロゾロと入ってきて各々にナフキンを膝にかける。
そして今回の物語の登場人物が”メニュー”のように紹介されていく。
麗しきヴィロンスキー伯爵(以下アリョーシャ)
美しく模範的なカレーニン夫妻
田舎貴族のコンスタンチン
うら若き乙女キティ
(順不同)
などなど。。
彼ら一人一人が紹介され、パーソナリティーや彼らに関するゴシップが一頻り御広間されると客たちは一斉にナフキンで口を拭う。
そう、まるで「一皿食べ終えた後のように」。
次のメニュー(人物)が紹介される前にナプキンをまた膝にかけ新たなゴシップを吟味する。
これが植田景子先生のこの作品に対する見方であり、印象なのだと一番最初に教えられた。
考えれば考えるほど効果的な演出だった。
- ゴシップなんて前菜(食事)と同じ。
- 人の人生に真っ向から関わることなんてなく、人間関係を「戯れ」として楽しむ。
- だからと言って食事=ゴシップがなければ彩りに欠ける。
- 腐った食事(あまりにもタチの悪いゴシップ)には手を出さずに眉を顰める
当時のロシア貴族社会の風潮をこんな単純かつ華麗に魅せるその技巧に舌を巻かずにはいられなかった。だから植田作品はやめられない。
同時に植田景子先生のこの作品への考え方も見えた気がする(私だけかしら?)
これから展開するこの物語は「単純なゴシップ話」。
どこにでもある不倫話がちょっとドラマティックに描かれただけのもの。
貴族や皆さんのお口に合うように色付けしてあるだけのものなの。
他人の人生なんてたかがゴシップ。あくまで他人の話。
「このゴシップを調理して皆さん(観客)に提供するのは私だけれど、たかがゴシップ(赤の他人の話)ですから笑 皆さんがどう受け取るかはお任せしますわ。」
こんな声が綺麗に折られたナフキンの空洞から聞こえた。
永遠に訪れることのない”本当の幸せ”
アンナ・カレーニナを見て、その場では理解できないような大きな課題をもらいました。
それは「本当の幸せとはなんのなのか?」
この作品を見ていて一番疑問に残ったこと、そして改めて気づかされたことがこれでした。「人間にとっての本当の幸せってなんだろう」と・・・・。
アンナにとっての幸せが「心から愛する人(アリョーシャ)と自由に生きていくこと」だとしたら、アリョーシャの幸せは「心から愛する人(アンナ)の幸せを叶えること」。
そしてカレーニンの幸せは「愛すべき妻と子供が何も言わずとも常に横にいる生活」。
キティとコンスタンチンの幸せは「素朴だけれどお互いがいるだけで成り立つ幸せ」。
3人の登場人物のなかで特に共感するのはカレーニンだった(というかカレーニンの幸せ像と愛し方が一番普通だった)から、カレーニンの視点から舞台を見るとどうしても「アンナの身勝手さ」「アリョーシャの情熱的で周りを顧みない自由さ」にイライラするけれど、当の二人はこうしている時が一番幸せそうで。
人の幸せにマニュアルはないんだと気づかされました。
そして誰かが幸せになろうとする時、多くの場合、その陰で必ず傷つく人がいるんだということを教えてもらいました。
カレーニンが自分の幸せを追求すればアンナの自由・激しさ(幸せ)は損なわれる。
アリョーシャが自分の幸せを追求すればアンナの評判を落とし本当の幸せは訪れない。
アンナが自分の幸せを追求すればアリョーシャとカレーニンに本当の幸せは訪れない。
お互いの幸せを擦り合わせ、妥協しあったキティとコンスタンチンには本当の幸せとは言えないかもしれないけれど、お互いが満足できる幸せがやってきた。
本当の幸せとは一体なんなのだろう?
この宇宙で誰かと関わりを持つ限り本当の幸せなんて永遠に訪れることはない。
それほど人間関係は厄介であり、人を愛すれば愛するほど純粋な幸せを掴むのが難しくなる。
私たちが人との関わりを断ち切れない以上、そして”感情”という厄介な才能を持ち続ける限り、本当の幸せは訪れないのかもしれませんね。
アンナ・カレーニナの物語から私はこんなことを学びました。
各キャスト感想
ここからはメインキャストを中心に気になった方々をピックアップ!
今回の話はあくまでも「アリョーシャ:美弥るりか」主演でしたが、物語の主役は間違いなく海ちゃんでした。
宝塚の愛の巡礼:美弥るりか(アリョーシャ)
色気の塊、美弥るりか。
ねっとりとした流し目、優しく開いた口元、撫でる指先、計算された前髪・・全てから色気が留まるところ知らずに漏れていました。
もういるだけでその色香に当てられること間違いなしのアリョーシャでした。
美弥ちゃんのアリョーシャは一度「こう!」と決めたものに突っ走る情熱を持った若い男性という印象を持ちました。
そして主人公でありながら、しっかりアンナを真ん中に持ってこよう、本当の主演は彼女だという気持ちを感じるアリョーシャでした。というかこの気持ちこそがアリョーシャの心情そのものなんでしょうね。
アンナが楽しそうに振る舞う時は心から笑い、アンナが苦しむ時はアンナの数倍苦しむというとても純粋な男性。彼の心の中心にはいつもアンナがいました。
一番印象に残った場面は病床のアンナがカレーニンに赦し乞うてる場面。
アリョーシャの背中の小ささ、孤独にぞっとさせられました。
彼はそこにいるのに、そこにいない。。彼の居場所はここではない。
そんな彼が最後に見た光とは・・一体何だったのでしょう?
私は「アンナが自分だけに向けたあたたかな微笑み」だったのではないかと想像してしまいました。
それこそがアリョーシャにとっての幸せ。
アリョーシャの幸せの全てだったのではないでしょうか?
破滅に直走る美しさ:海乃美月(アンナ)
るうさん(スティーバ)の言葉が全てを物語っている気がします。
「彼女は私(兄:スティーバ)と正反対のように見えるが、実はとてもよく似ている。衝動的に生きる性格なのだ」(ニュアンスです><)
誰もが見抜けなかったアンナの衝動。それは自由への衝動だったのだと思います。
彼女はアリョーシャに出会うまでは自由の本当の意味、自由に人を愛すことの尊さを知らずに生きてきました。
そんな彼女だからアリョーシャと出会った瞬間、「本当の自分(本当の自分の幸せ)」を垣間見てしまい戸惑い悩み続けたのでしょう。しかし、一度受け入れてしまえば彼女にとってはまさに新世界。
どんなに世間に白い目で見られようと、息子と引き離されようと自分の中に潜んでいた衝動を止めることはできない。
その破滅的とも言える生き様はあまりにも美して。。。憎かったです。
正直、飛び込み自殺をするその瞬間までずっと羨ましいとさえ思っていました。
アンナのように自分の心に正直に生きられたらどんなに清々しいだろう。
どれだけ”生”を実感できるだろう。
アンナは物語終盤で一気に狂ったように描かれていましたが、多分彼女は狂ってない。
彼女は最後まで自由に生きることに必死だった。彼女の自由はその価値を知らない人には狂気に見えるかもしれない。でも彼女は電車に飛び込んだことによりようやく誰にも邪魔されない「自由」を選び取れたのだ。
老いることもない、美しいままの自分。
もう誰にも評価されることはない。評判なんて気にしなくていい。
大好きなアリョーシャは今もなお自分を愛してくれる。
その事実を胸に抱きつつ、自分の自由を勝ち取るために彼女は自分の時間を止めた。
ずるいように見えて究極の自由を彼女は手にした。
アリョーシャ、カレーニン、アンナ。
この三角関係はアンナの一人勝ちで終わった。
誰よりも男に振り回されたように見えた彼女だが、最後に全てを手に入れたのはアンナだったのではないでしょうか。
ここまで私に考えさせる機会をくれた海ちゃんの演技に脱帽したい。
視線の据え方、腕の動かし方、全身から伝わる”自由への渇望”。
宝塚歌劇団の一女優として置いておくのはあまりにも惜しい存在だと今回も思いました。
日本人らしい耐える愛:月城かなと(カレーニン)
今回一番共感できたのがカレーニン。
自分の心を全て曝けだすなんてことはしない。社交界でうまくやっていくための体裁を気にするその姿に私は”現代の日本人”を重ねて見てた。
日本人だけでなく、多くの人間が無意識に行なっている「そうありたい・そうしなければない」と考えている姿を誇張して描かれたのがカレーニンという男ではないでしょうか?
だからこそカレーニンに共感してしまったのです。
アンナが自由に向かって何にも囚われずに羽ばたく姿を、止めたいのに止められない。
プライドや立場、世間体が気になって大きな声で「愛しているからどこにも行かないでくれ!」と伝えられないそのカレーニンの気持ちが痛いほどわかる!!!
月城くんの言葉の裏に隠された感情が、冷徹に見える瞳から熱く切なく迸っていました。
一番切なかったのはあのセリフ。
「彼女と私を繫ぎ止めるものが社会上の体裁(結婚)だとしても私は構わない。例えそこに愛がなかったとしても、、」(これもニュアンス〜)
カレーニンの不器用さ、人間関係(というか社交界)に縛られ続ける人間の虚しさを全て表したのがこの台詞。
彼が「アンナは俺のものだ!俺こそが一番彼女を愛しているし幸せにできる!だからこれからも一緒に生きていこう」とアンナに一言言えていたらこの物語は途中で終わっていたし、そもそもカレーニンがそんなことを言える男であればこの物語は始まらなかったはず。
でもこの物語が存在するのは「そういう人間が沢山いて、そのうちの一人にカレーニンという男がいたから」。
感情を爆発させ自由に生きることの難しさ、自分の深い愛情に気づかない愚かさ、そしてカレーニンの抱えるジレンマを見事に演じた月城かなとさんに大きな拍手を。
そして最後にもう一場面お話しさせてください。
感慨深かった「アリョーシャにアンナの日記を渡すシーン」。
「私の知る妻はここ(日記)にはいない」の一言。
彼は最後までアンナの気持ちを理解できなかった。ということをこの一言で言いたかったのかと考えたけど多分違う。
彼の知る妻は、とうの昔にいなかった。
その日記に書かれていた妻は彼が愛した妻ではない。
本当に別の女性として彼の目に映ったのでしょう。
では彼が本当に愛したのは誰なのか?
アンナなのか?それともカレーニン夫人なのか?
飛び込み自殺をしたアンナは誰だったのか?
今となってはもう誰にもわからない。
カレーニンが最後まで彼女に聞きそびれた質問はこれではないでしょうか?
「君は誰なんだ?」
ちょっとしたハプニング!
物語終盤、うみちゃん演じるアンナが美弥ちゃん演じるアリョーシャにベッドの上でもたれかかると同時に息子への誕生日プレゼントとしてベッドに置いていた地球儀が弾みで落ちそうに!
美弥ちゃんが全く表情を変えずにやんわりと地球儀をキャッチしてベッドに押し戻していました笑
その後、うみちゃんが美弥ちゃんの胸に顔を埋めているのですが、なんとうみちゃんの髪の毛が美弥ちゃんの洋服にめっちゃ張り付いてる(絡まってる?)〜笑
美弥ちゃんがうみちゃんの絡みついた髪の毛を一生懸命ほぐしながら・・最終的にバリバリっと剥がしながらお芝居しているのを見て「流石プロだな」と妙に感心してしまいました。
ちょっとしたハプニングも見られてライブビューイングの有り難み(生中継で舞台を見られる)を感じました。
濃厚で重厚な芝居。
いい舞台を観た後ってしばらく思考が停止してしまって感想が出てきません。
今日の記事もこの舞台の感想の40%しか書ききれていない。
本当はもっと書きたかった。キティやコンスタンチン。オブロンスキー夫妻のことも。
この4組のカップルが機能して初めて成り立つ物語の深みについて。
もっともっと書きたいのですが時間がないのでとりあえずここまで涙
あ!きよら羽龍ちゃん最高でした・・・← 応援してます!
とりあえず会社行ってきます!
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